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追悼:中村哲医師

数ヶ月振りに那覇空港へ…
この間まで日帰りで行ったり、
毎月必ず行ったりしていた故郷。
空港の向こう側に海が見えます。
今は この空港が拠点。
どう表現したらいいか複雑だけれど
かつては羽田空港が拠点だったので
東京に行くというより「帰る」
という方がスムーズなのかと。
私にとって片割れの東京タワーが
ビルに隠れて見える部分が減っています。
愛犬との散歩コースの六本木ヒルズも
今では遠い昔に感じて、ビルの間から
チラっと見えるけれど、そっちまで
遠い所に建っているように感じます。
思ったより暖く感じました。
日本は狭いようで長くて広いと
感じるのは気温差です。
紅葉時に帰ったのは久しぶりで、
木々の色づいた様をマジマジ見て
しまいました。
上を見ると四角い空。
これ…これが私の知っていた空。
ビル風や放射冷却なんて
今や 縁のない生活です。
それでも、山々のある景色がある
故郷の人が、見慣れた山々を見ると
懐かしく感じて「故郷」を思うと
いう話と同じで、私は
高層ビルや車でビッシリの大通りを
見ると、この光景が私の生活だった
頃が昨日のことのように思えます。
移動して、また東京に戻ってお茶を
飲んでいると携帯に速報が入りました。
12月4日でした。

ーアフガニスタンの中村哲医師銃撃ー

自分でもビックリするくらいショック
で絶句しました。
どれだけ尊敬してきた先生でしょう。
初めて、中村医師の活動を知った時
人として生きることの意味を
考えさせられました。
その時は故郷に足を踏み入れ
ほんの少しセンチメンタルになっていた
ので、私は頭から冷水をかけられたような
衝撃と信じたくない気持ちで
いっぱいになりました。

 

白衣を脱いで土木作業をされている
中村医師の姿は全身から「信念」
と「変わらぬ正義を愛するパワー」
が発せられ、このままではいけない
と自分に問いかけてくる迫力が
ありました。
多分 私だけでなく沢山の人達が
それぞれ何かを感じ、生き方を
考えさせられたことと思います。
中村医師は餓死や死について
よく語られておりますが、
現在の日本についても手厳しく
語っておられたのが印象的でした。
アフガニスタンという外国だけでなく
日本で今 現在進行形の孤独死・餓死
など事件が起きると取り
挙げられますが、何故このようになって
しまったのかと向き合う必要性を
各自が持つことが大切です。
追悼のため、中村医師の歩みを記した
「週刊文春」2016年9月1月の再編集の
記事をゆっくり読みました。
中村医師の生い立ち、考え方が
長文で載っていました。
妙に納得したのは中村医師が大学
卒業後、現・肥前精神医療センター
の精神神経科にまず勤務された
話です。
中村医師も最初から医師になるつもり
はなく、虫や蝶の観察が好きで、
本当は農学部に行きたかったのに、
遊びにしか聞こえないと思って
医師になりたいといえば父親の
許しが得られると思ったからだ
そうです。
後から農学部に転部すればいいと
思ったそうですから、その頃
地方の無医村地区の問題が
クローズアップされていて
その時 日本国のために医師に
なって役に立ちたいとか、
そんな気持ちを持って大学に
通っていた時期があるというのも
人間的です。

 

しかし実際に医学部に入ると
国立大学とはいえ高価な医学書を
何冊も買わなければならなくなり
それを父親が借金して買ってくれる
姿をみているうちに、親から受けた
義理・恩を立てないと親不孝になる
と思い、医学部を出ようと決心した
という話も、人柄を垣間見れます。
今時 これほど親を大切にする人達って
どれほどいるでしょう。
既に こんな所にも愛情の豊かさを
感じます。
精神科で働いていたことが後々
アフガニスタンで文化も風習も
異なる人達と接する際、大切なのは
彼らの生きる世界を受けいれ、
自分の価値観を押し付けないこと
、単に違いであるものに対して、
勝手に白黒をつけてしまうことが
様々な問題を生むと考える
癖がついたそうです。

これは、とても大切な考え方です。

中村医師ご自身はクリスチャンで
日本キリスト教海外医療協会から
ペシャワル赴任の打診を受けたこと
から始りました。
モンシロチョウの原産地という事に
惹かれた部分もあったと、おっしゃって
いますが、そのキッカケから
同地でハンセン病の治療を行い、
その根絶プロジェクトを進めます。

 

ご両親が亡くなったことで本格的に
ペシャワルに行くことに押しやられた
という流れも、親孝行のお人柄が
よくわかります。
ミッション病院での治療に止まらなかった
のは結核、マラリア、腸チフス、
デング熱などあらゆる感染症の巣窟
だったからと話しておられます。

 

そしてミッション病院から出て
独自の活動が始まってアフガンの人々
との付き合いを深めました。
気の遠くなるような作業の積み重ねで
人間にとって「水」がどれだけ大切かを
感じ、中村医師は延々と
水の力のすごさを語っておられます。
白衣を脱いで土木作業をしながら
「まず生きろ!病気はあとで治す」
という有名な言葉が幾つも出てきます。

 

現在の日本のことも的確に非難して
おられたのが、とても重くて深かった
ので、これほどの偉人の発言は
影響威力があるので
この独占国家には歓迎されないなぁ
と思っていました。

 

最初から生活の保証があったわけで
なく、自分の信念で生きている姿は
普通に生きている私達に、何も
出来ないわけではなく、それぞれが
自分の与えられた環境、経済力、
他人の目に触れなくても自分以外の
誰かのために、また家族のために
生きることが、どれだけ大切なのかを
インタビューや講演、本などで
訴えておられたと解釈しています。
銃撃された写真を見て、言葉が
出ませんでした。
運ばれていくお姿は目を覆うばかり
のものです。
中村医師の功績、お人柄、人々に与えた
大きな影響は色あせることなく
残って、語り継がれることでしょう。
襲撃予告があって、警備も固めていた
そうですが、警戒していた移動中に
狙われてしまったのは残念で仕方
ありません。
中村医師の言葉で、アフガニスタンの姿
は決して他人事ではないという
これからの日本を懸念されていたのが
印象に残っています。
令和に入って、何か明るい話題って
あったでしょうか?
まさか自分が、この長期悪魔的政権で
暮らすことになるとは思いませんでした。
フランスも年金のことで暴動が
起きています。
おとなしい去勢されてしまった日本人…
海外の食に対する、人間の思考行動
の関係を日本ほど疎かにする国を
どう見られているのでしょう。
一部の意識のある人達が根本の
種子問題などに取り組んでいますが
何故 種子問題やモンサントの問題
が国民性の変化と国の維持に関係する
とてつもなく大きな問題であるのか
沢山の人達に知って貰えたらと
思います。

 

そうして心身ともに、まともに
されて、やっと事の本質が見えてくる
と信じています。
中村医師を狙った銃撃犯で一緒に亡くなった
運転手、警備にあたっていた方達の事も
その悲劇を思い、祈ります。
私達に その生き様をもって示してくれた
説得力のある本物の「思い・愛・行動力・
希望」を胸に刻みます。
毎年12月4日を忘れることはないと
思います。

 

クリスチャンの中村哲先生へ祈りを
先生の信仰の言葉で捧げます。
天にまします我らの父よ
中村哲先生に豊かな祝福を与え、
あなたの御国で平安を。
そして先生のご家族に 主イエスの
深いあわれみと、癒しと慰めを
お与え下さい。
この祈りを主イエスキリストを
通して御前にお捧げします。アーメン。
アフガニスタンの追悼式式典では
ガニ大統領が軍兵士らと並んで
アフガン国旗に覆われた棺を担ぎ
多くの功績を残した中村医師を
偲びました。
アフガニスタンの航空会社が飛行機の
尾翼に中村医師の肖像画を掲げた写真を
投稿して話題になっています。
「いつまでも恩義を感じることでしょう」
これから流される追悼番組、インタビュー
を 心に刻みながら見ていきます。