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終焉は始まり②

こんにちは。Nachikoです。

 

自己紹介を兼ねた雑文の続きです。

よく出てきてしまうかと思いますが

私は非常に圧縮された空間で育ちました。

 

何もかも「NO」の両親なので、

たまに自然発火しそうになりました。

 

その度、消火にあたるわけでして、

それは両親に見つからないように家を抜け出し、

学びたいことをやってくるということでした。

 

幸いなことに祖母が協力的でしたので

諦めてしまう寸前で学べたことが多いです。

 

私は ずっと東京って みんな東京に住んでいる

人達だと思っていました。

 

つまり同郷の人達ということです。

 

ある記事で 東京生まれ東京育ちは

人口の2割も居ないような文章を見つけました。

 

これでお盆、Uターンラッシュ、お正月になると

大通りがスカスカになる理由がわかりました。

それぞれ故郷を持っていて、

季節で懐かしい人や愛する人達に会えるわけです。

 

あまりの道路の空き方にビックリします。

おまけに、各地方には方言があって、

何と素晴らしいことか!

 

共通の言語が生み出す親密性は計り知れません。

 

などと感じているうち、自分も 東京という

ローカルの住人だと気づきました。

 

東京弁は標準語とは違うし、アクセントは

同じでも発音しにくい音があったりします。

地味で新しい店に疎いのが特徴かと思います。

 

きちんとした服装の人が多い中、

大根や長ネギをはみ出して持っていて

普段着でしたら地元民ということが多いです。

なんといっても周囲の移り変わりに

付いていけないのですから、

店を聞かれても答えられません。

 

そんな訳で多少はUターンできる人達を

羨ましく思わなくなった頃、

自宅の隣にマンションが建ちました。

 

マンションの工事も終わり、

新しい人達が引越して来て

落ちついたかと思っていました。

 

うちの母屋の裏にボロ屋があるのですが、

そこの屋根に空き缶が捨てられ、

放尿までされていたのを知った時、

怒りより寂しさがこみ上げてきました。

 

街はゴミ箱にされていき

道路を掃除する年寄りが目につきだしました。

私もゴミを拾って歩いていました。

 

もっと東京を愛してと何度も思いました。

 

大切な祖父母を看取り、

変わった両親(Mr.&Mrs.NO夫妻)

と私の家族と

凸凹しながら過ごしていました。

 

そこへ大きな惨事が起きました。

 

あの2011年3月11日の東日本大震災です。

 

私は麻布十番という近所の商店街に居たのですが、

物凄い光景が広がっていました。

帰宅してテレビを見たら、

想像を絶する事になっていました。

 

この衝撃は焼き付いています。

テレビは同じ画面だけ。

マーケットは商品棚はガラガラ。

飲み水もありません。

 

報道の何が本当で、何が嘘なのかわかりません。

 

東京にしか親戚がいないので

飲み水を送ってくれる人もいません。

 

たまたま以前やっていたホームページで

知りあった方が事情を知り、

大きなタンクで水を送ってくれました。

命の水とは このことです。

 

それにしても あまりにも大きな災害で

私は痛烈に『生きること』を考えさせられました。

自分の無力さ、ネットに対する不信感、怖さ、

人としての在り方…などなど

かつて味わったことのない程のショックを受けました。

 

一旦 全てがリセットされた気分になりました。

 

様々な理由で音楽から遠ざかっていましたが

無意識に、あまりにも悲しい

絶望ソングを作っていました。

 

地球は何度も地殻変動を起こしたり、

異常気象を経てきました。

その度に終焉としか思えないリアルを

体験してきたのだと思います。

 

 

本物の終焉とは何か…。

 

ネガティブ思考の私は

ひたすら妄想し苦悩するだけです。

 

この大変な時期に何やっているんだ…と

無力さに打ちのめされて考え込んでいました。

 

終焉と感じたなら新たな何かが始まる…

いや 諦めることに慣れてしまうような

毎日だったけれど、

一度は 恐れず立ち上がらなければ。

 

勿論、Mr.NO達は音楽をやったら許さない

という姿勢になっていましたが、

私はオモチャのキーボードで曲を作り始めました。

 

そして 古い友人のドラマーそうる透に連絡し、

アルバムを作ることになりました。

 

以前 デビュー当時 ちょうど家の建て替えで

私の部屋を私のピアノと歌を騒音扱いする

Mr.NO夫妻は快く私の部屋を防音スタジオに

してくれたので有り難かったのですが、

その後は 彼等のカラオケルームになり、

私は使えなくなったので

アルバムのための歌は深夜マーケットの屋上で

車を停めて練習しました。

 

それでも清々しく、音楽を またやるんだ

という喜びでいっぱいになりました。

 

普段何かとグータラな私が、

何故 長い年月を経て

またアルバムを作ったかという話でした。

 

アルバムをリリースした後、

物凄く久し振りにライブをやり

暖かいリスナーの方達に直接

お目にかかれて感激しました。

 

こんな私を覚えていて下さる方達が

いらしたという驚愕の事実でした。

 

長いこと待っていたと声をかけて下さいました。

あの時の 私の胸は感謝と感激が

何重ものヴェールになってグルグル巻きになり、

呼吸ができないほどギューっとなり

熱くなっていました。

 

どうせ〜だろう、という思考の癖はあるものの、

私は 多分〜かもしれない。

でも…になるかもしれない。

の思考を持ち合わせているのが

幸いしたのかと思います。

 

今日はこの辺で。ではでは。

写真は 当時住んでいた街を

六本木ヒルズから撮ったものです。